1990年10月2日
テレビの臨時ニュースが釜ヶ崎で暴動が発生したと告げた。
私は一日テレビに釘付けになった。
ニュースは警察から得た情報のみを報道していた。
しかも事実として報道していた。労働者は犯罪者 扱いだった。
労働者の声を流したTV局はなかった。
労働者の声は一言も流れなかった。
翌3日の新聞の朝刊、夕刊にも労働者の声は一言も載っていなかった。
カメラをバッグに放り込んで私は神戸の我が家を飛び出した。
夕刻前に釜ケ崎に着いた。マスコミへの激しい怒りの声が充満していた。
聞こえてくるのは、マスコミへの怒りの声ばかりだった。
この怒りの群衆の中でバッグからカメラを出すことは出来なかった。
群衆が機動隊に激しく投石している現場に着いた。
しばらく機動隊正面横の建物の隙間に身を潜め、そこから撮影した。
長い激しい投石の後訪れた小休止に、私は機動隊と群衆との間に立った。
機動隊の背後の報道カメラマンに対して私は心の中で激しく怒鳴りつけていた。
暗くて、シャッター速度と絞りの目盛りが見えなかった。
写真はどうでもよかった。私は機動隊に向けてカメラを構えた。
機動隊に石を投げる代りにレンズを向けた。
群衆への連帯の私の意思表示だった。
少しずつ後ずさりして群衆に近づいていった。
後方の群衆の中の一人が叫んだ。「ライトを狙え!」
機動隊の背後のTVカメラのライトめがけて石が一斉に投げられた。
私は群衆の中に入った。カメラを手にする私を誰も咎める人はいなかった。
しばらくして一人の労働者が私に声をかけてきた。
「おまえ、新聞社の者か?」否定すると彼はいった。
「新聞社の者だったらおまえ殺されるぞ!」
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