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宮武外骨
宮武外骨著作集1より 私刑類纂




装幀:清水克軌

昭和47年2月15日第一刷発行
発行者:斉藤克己
発行所:太田書房




自序 古今内外いづれの國に於いても私刑は行われ、文明國と称する欧米各國にても、 私刑の行われざる時なく、行われざる所なし、リンチの虐殺行為を黙許せる 亜米利加を私刑國と呼ぶ者多しと雖も、いづれか私刑國ならざらん、現に我國 にては鉱山及水電工事場に監獄部屋の存在を黙許し居るにあらずや、又昨今各 地に跋扈せる國粋會員は、政府が委任せる私刑目的の制裁機関なりと云うにあ らずや、 (中略) 天来五十六年の九月二十日     外骨






我日本は言語上の私刑國 △馘首  くびきりにて著名なるは、台湾の生蕃なれども此くびきりの蛮習は 我國にても盛んに行はれし私刑公刑なり、首を取るとか、首実検とか、首をサラ スとか、首の無い人とか云う言葉は、我戦國以後、比喩的俗語に転化するほど、 首切りは普通常事視せられしことなり 文化輸入の近世に至りてマダ現實に首無し男女の屍體とか、「天印」とか云へる 事も行はれ、又言語としては罷免解職の事を「首を落さる」「首を切らる」「首 が飛んだ」などの代名詞にて通し、世界思潮の激波にて起れる資本家と労働者と の闘争記事中にも、新聞記者は「馘首」といへる蛮習語を平気にて盛んに使用す るなど領䑓以後の我國は、世界第一のくびきり國なるべし 尚此外に「詰腹を切らせる」といふ俗諺あり、自殺を強要せし私刑的残虐事の 転化語なり








△ 伊藤博文の銅像 明治政府の元勤者として伊藤博文といへる人の銅像を、其生前に神戸 港川神社の境内に建てし者あり、乾児共の阿諛的建設なり、加之、 忠臣の霊を祭れる社内に、好色老爺の像を建設せしは不埒なり、など の非難多かりしが、博文の未だ惨死せざる前、即ち明治三十八年十一 月、日露戦争の終局は、大屈辱講和なりと叫びて、全國各地に暴動の 起こりし事あり、其際神戸市民数百名は港川神社に至り、各々六尺褌 を外づして縄になひ、其縄を博文の銅像に打ちかけて引き倒し、一同 エンヤエンヤのかけ声にて市中を引き廻せし上、斯かる好色老爺の銅 像を置くに好適の場所ありとて、福原遊郭の門内に引きずり行きて捨 てたり、当時諸新聞は此暴動を壮挙として、社會的教訓なり懲戒なり と激賞せり、右の破損せる銅像は、其際警官等が他所に移して保護的 に隠し置けりと聞きしが、今に再建もせず、其存否も不詳なり 当時此暴動に興りし者は、刑法の建造物破壊罪として五年以下の懲役 に処せられるべき筈なるに、警官は其勢に恐れて一人も検挙せざりし といふ






△自殺者の屍體 文化元年九月、露國より帰来せし漂流民の物語を筆録せる「環海新聞」 に露西亜イルカーツカ地方の風習として「縊死」の類い、凡そ自害して 死せる者は、佛罰を蒙る宗旨はづれの者なりとし、其屍を車に乗せ、 市中を引廻し、其上にて取り捨ての如く葬りて、寺の引導は受くる事を得ず」 とあり、右は佛罰、寺等の語あれども、カトリック教(耶蘇舊教)の風習 を記せるならん、カトリックの教會にては、今日にても自殺者の葬儀を 取扱はざる制なりといふ 自殺を罪悪の一とする事は、各國の刑律にも含まれ居る所なるが、徳川 幕府の制度には、享保の頃より男女の心中、即ち相對死を禁圧せとして、 死後葬式を許さず、裸體にして市にさらせし事もありたり







 青地 晨 ..... 反骨と猥褻の人  

宮武外骨は1867年(慶応三年)一月十八日にうまれ、1955年(昭和30年)七月二十八日に 数え年八十九歳の生涯をおわった。 (中略) 明治、大正時代の外骨は、天下の奇人とよばれ、ツムジ曲がりの奇行が看板の名物男であ った。 人をさわがせ、世をさわがせ、物議をかもすことを無上の愉しみとした。 (中略) しかし神聖不可侵、万世一系の天皇を頂点とする官僚専制に、彼ほど深い憤りをもって いた人間はめずらしい。  私見によれば、権力に對する抵抗者には二つの人間類型がある。 一つは権力者たりう る能力や資質をもちながら、権力に疎外されたため、既成の権力を糾弾し、打倒しょうと する人びとである。 しかし彼らは権力の打倒に成功、既成の権力にかわってその地位に つけば、打倒した権力とほとんど同じような権力的コースを歩むのである。多くの革命運 動家には、こうした類型がすくなくない。彼らの反権力のエネルギーは、権力への飢渇に すぎないからである。 いま一つの人間類型は、権力への拒否反応を自分自身の体質のなかに内包している人び とである。 その拒否反応は、ほとんど生理的だといってよい。 (中略) 宮武外骨は、明らかに後者の人間類型であると思う。 彼の抵抗は個人的心情的で、組 織的、体系的なものではなかった。 権力に對する生理的嘔吐に似たものが、彼を抵抗に 駆り立てないではいない。その意味で外骨はホンモノなのである。 (中略) 中年以後の彼が猥褻の研究に力をそそいだのも、抵抗からの逃避ではなく、かたちを変 えた権力への抵抗とみるべきだろうと私は思う。 (中略) 彼が身分的差別をひどくきらったことは、自分は未解放部落の子孫だと広告を出した ことでもわかる。 (中略) 未解放部落の人たちが、水平社を結成して差別へのたたかいを始めたのは、大正十一 年のことで、それよりも五年前に部落民の子孫だと宣言したことは、きびしい差別を覚 悟のうえのことでなければならない。物好きの奇行とは、類を異にするのである。 (中略) つづいて明治二十年には、「頓智協会雑誌」という滑稽風刺雑誌を創刊、これも売れ 行きがよく、月々二、三百円に収入があったという。当時としては大変な大金だから 眠っていた放蕩の血が吹き上げ、 (中略) ところがこの「頓智協会雑誌」で外骨は筆禍事件をおこし、獄につながれることになる。 明治二十二年二月、帝国憲法が発布され、日本中が湧くような騒ぎとなった。その式典の 錦絵が飛ぶように売れたので、外骨は錦絵になぞらえ頓智憲法発布の戯画を描かせ、二月 号に掲載した。  この錦絵には、王座で憲法を授ける天皇のかわりに骸骨(外骨)が頓智憲法を授け、憲 法第一条の「大日本憲法ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」をもじって「大頓智協会ハ讃岐の 平民外骨之ヲ統轄ス」と書いた。つまり「不磨の大典」といわれた帝国憲法や天皇そのも のを完全にパロディ化したわけである。 「朕が忠良ナル百僚有司」が、だまってこれを見逃すはずはない。雑誌はたちまち発 禁、外骨は不敬罪で重禁錮三年の刑に処せられた。 (中略) 既成道徳のなかで、もっともタブー性がつよいのは性道徳であることはいうまでもない。 ことに戦前の日本では、天皇を家父長とする擬制された家族国家であった。この家族国家 はピラミッド型のタテ社会で、夫婦というヨコの関係も男子優位のタテの隷属関係に置き かえられ、男女の性の問題は完全に捨象されていたのである。 したがって性はケガラワシイもの、隠蜜なもの、口や筆にすべからざる猥褻として、地 下へ追い込まれていた。 (中略) 彼は、性をケガラワシイもの、猥褻なものとはすこしも考えていなかった。その 反對に性を猥褻として密室に追い込む既成の道徳、体制の道徳こそ、「虚偽」であり、 「愚蒙」であることを告発し、みずから猥褻研究家の看板を堂々とかかげたのである。 (中略) こうした偽善性において、日本もまた同様であった。将軍や大名は、家系をたやさぬた め、家系の繁栄のために、数多くの後宮を公然と擁することができた。これはかっての 天皇家も同じである。しかしこのような偽善的なタテマエは、実は権力者たちの多様な性的 快楽の追求を隠蔽するためのカクレミノであったことは誰でも知っていた。




挿絵:清水克軌