私は、京都のある大学で、「戦後思想史」という題で、講義をしている。
(中略)
私は、三木清が1945年(昭和20)八月十五日以前ではなく、八月十五日から一ヶ月以
上たった九月二六日に獄死したという話をする。私は中島健蔵さんから聞いた思い出話を伝
える。三木清は疥癬で、栄養失調と不眠とで死んだらしい。三木清が疥癬になったのは、疥
癬の病気をもつ囚人の毛布を三木清にあてがった疑いがある。それは、巧妙にしくんだ殺人で
ある。九月二六日朝、看守が三木の独房の扉をひらいたとき、三木は木のかたい寝台から下へ
落ちて、床の上で死んでいた。干物のように。
日本政府は、敗戦後にも、三木清を釈放しなかった。そして日本人民は、三木清を救い出す
ことができなかった⋯⋯。日本は、戦後、おそらくもっとも重要な思想的な仕事をしたであろ
うひとりの思想家を失った⋯⋯。
(中略)
三木清の獄死ニュースを聞いて、ロイター通信の記者がすぐに事情をしらべた。そして、
政治犯のすべてがまだ獄中にいるということを知った。おどろいた外国人記者は、山崎巌内相
に面会をもとめる。すると山崎内相は答えて「思想取締りの秘密警察は現在なお活動を続けて
おり、反皇室的宣伝を行なう共産主義者は容赦なく逮捕する⋯⋯さらに共産党員であるものは
拘禁を続ける⋯⋯政府形態の変革、とくに天皇制廃止を主張するものは、すべて共産主義者と
考え、治安維持法によって逮捕する」と語る。そのインタビュー記事は「スターズ・アンド・
ストライプス」紙 (日本占領米軍将兵向けの新聞)に10月4日に発表された。これが問題となり、
マッカーサー元帥は、四日夕刻に「政治、信教、ならびに民権の自由に対する制限の撤廃、政治
犯の釈放」を指令した。 なすすべを知らない東久邇宮内閣は、辞職。 九日に幣原喜内閣誕生。
十月十日に、獄中十八年組をはじめとする政治犯が解放される。
敗戦後二ヶ月半たって、山崎内相は平気で、しかもおそらくマッカーサー司令部によってさ
え支持されるだろうと信じて、こうした信念を吐露したというのは、ひとつの喜劇である。そ
の喜劇のおかげで、三木清の獄死という悲劇がある。
八月十五日、敗戦と同時に、あるいは数日後に、あるいは一ヶ月後に、だれひとりとして、
政治犯釈放の要求をかかげて、三木やその他政治犯の収容されている拘置所、刑務所におしか
けなかったということは、いうまでもなく日本敗戦の性格を物語っている。
(中略)
戦争協力新聞のすべてが、題号も変えずに、戦後に生きのこる。これまた、ドイツ、イタリアの
諸新聞、フランスのナチス協力新聞にみられない。
(後略)
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