私が中学生のときだった。
近所のクリスチャンのご婦人が、死を「縁起が悪い」と言ったその言葉が
私の心に強くひっかかった。
天国にいくことがどうして縁起が悪いの?
神に召されることがどうして縁起が悪いの?
私は腑に落ちなかった。
高校生のとき、矢内原忠雄の本だと思うけれど、内村鑑三が娘さんの埋葬のときに
「万歳!」と叫んだとの記述を目にし、クリスチャンはこうでなければと思った。
のもつかの間、内村鑑三は沈痛な表情だったと文章は続いていた。
若い頃、旅の途中で知り合った牧師に尋ねたことがある。
「天国に行くことをどうしてクリスチャンは悲しむの?』
牧師にはつまらない質問に思えたようだった。
牧師は答えた。「別れは悲しいものだ」。それだけだった。
つかの間の別れじゃないか!
牧師は神に目が向いていない。私はそう感じた。
牧師とそれ以上言葉を交わさなかった。
ある有名は牧師は「死は恐くない」と言った。
考えてみるとおかしなことである。
「天国に行くことは恐くない」「神に召されることは恐くない」
そういうことになる。
医者から末期ガンの宣告を受け二日間泣き明かした牧師がいたことを知っている。
天国を信じ、神を愛しているはずのクリスチャンがどうして死を悲しむのか?
クリスチャンにとって、神に召されることはこの上ない悦びではないのか?
私は腑に落ちないのである。
あるTVニュース映像が私の脳裏に焼き付いている。
昔「地上の楽園」の宣伝に騙されて10万弱の人々が北朝鮮に渡って行った。
新潟港の船上の人々と岸壁の見送りの人々の映像だった。
大歓声が沸き上がっていた。
「楽園」に行く人々も見送る人々も共に歓喜していた。
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