「私の亡くなった知人は本当に良い人でした。その人が「罪人」とされること、
また、死後も苦しみ続けているのではないかと思うことは、私にとって耐えが
たい苦痛でした。」
上記はあるBBSで目にした6年前の書き込みです。
私の身近にも自殺者の遺族、友人がいます。
自殺を嫌悪する風潮が大切な人をなくした悲しみに追い打ちをかけているように思う。
荒井献氏の著書 「ユダのいる風景」に以下の記述がありました。
キリスト教、特に西方教会において、ユダの縊死を嚆矢とする自殺が、「罪」とみなさるれよう
になったのは、アウグスティヌス以降のことなのである。
自殺は、神によって与えられた命を絶つ人間の行為として最大の罪なのである。(アウグスティヌス)
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ショウペンハウエルは以下のようにいっています。
自殺について ショウペンハウエル (訳:斉藤信次)岩波文庫
私の知っている限り、自殺を犯罪と考えているのは、一神教の即ちユダヤ系の宗教の信者だけで
ある。ところが旧約聖書にも新約聖書にも、自殺に関する何らかの禁令も、否それを決定的に非
難するような何らの言葉さえも見出されえないのであるから、いよいよもってこれは奇怪である。
そこで神学者たちは自殺の非難せらるべきゆえんを彼ら自身の哲学的論議の上に基礎づけねばな
らぬことになるわけであるが、その論議たるや甚だもって怪しげなものであるから、彼らは議論
に迫力の欠けているところは自殺に対する憎罪の表現を強めることによって、即ち自殺を罵倒す
ることによって補おうと努力しているのである。
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聖書に以下の記述があります。
ヨハネによる福音書 11章 14節-16節
するとイエスは、あからさまに彼らに言われた、「ラザロは死んだのだ。そして、わたしがそこに
いあわせなかったことを、あなたがたのために喜ぶ。それは、あなたがたが信じるようになるため
である。では、彼のところに行こう」するとデドモと呼ばれているトマスが、仲間の弟子たちに言
った、「わたしたちも行って、先生と一緒に死のうではないか」
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以下はカトリック作家グレアム・グリーンの小説「事件の核心」の最終ページからの抜粋です。
自殺者の妻と神父との会話です。( ………は省略)
「あの人はカトリック教徒としては落第でした」
「それは一般によく使われるなかでもっともばかげたことばだ」とランク神父は言った。
「そしてそのあげく――――こんな恐ろしいことをしでかして、あの人は自分を地獄へ墜と
していることを知っていたにちがいありません」
「そう、それはよく知っておられた。………… 」
…………
「教会の教えでは、、、」
「教会の教えはわしも知っておる。教会は規則についてはなんでも知っておる。だが一人
の人間の心のなかで起こっていることについては教会も知らぬのだ」
「ではまだ希望があるとお思いなのですね?」と彼女は疲れたように尋ねた。
「あなたはそんなにご主人を恨んでおいでか?」
「もうなんの恨みも残っておりません」
では、神は女よりも恨み深いとでもお思いか?」
…………
ランク神父は言った。「おかしな言いかたと聞こえるかもしれぬが――――なにしろあの
ような間違いをしでかした人のことだからな――――だがわしの見るところでは、あの人
はほんとうに神を愛しておられたと思う」
| 「事件の核心」グレアム・グリーン ( 訳:小田島雄志 ) 早川書房
キリスト者の女友達がこんなことをいったことがある。
「神様は人の行いを見ているのではないよ。人の心の中をご覧になっているのよ」
妙にこの言葉が私の心をとらえた。
神にとって自殺という行為が問題なのではない。自殺者の一人一人の内面こそ問題なのだ。
彼女のことばを借りればこういうことですね。
キリスト者ではないが、「神様の話をすると、それだけで幸せになります」という女性から
いただいたメールに以下のことばが記されてた。
「私の思い描く神様は、寛大で平等?(少しまだ疑問あり)で、愛にあふれています」
私のある体験
昔、駅のホームにぼんやり立っていた時、突然線路に飛び込みたい強い衝動が起きた。
驚愕を覚え、ゆっくり後ずさりして線路から遠ざかった。
多分、うつ病だったのだろうと思う。生きていることの強い疲労感があった。私の心は
暗かった。人から明るく話しかけられると苦痛だった。笑みを返そうとすると顔が引き
つった。それほど強いうつ状態だった。
だけど自殺したいとは決して思ってはいなかったのである。
もしあのとき飛び込んだとしても、それは私の意志とは関係なかった。
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